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音楽劇「マハゴニー市の興亡」の感想(2)

さて、前回からだいぶ時間が空いてしまい、そうこうしているうちに講演終了してしまいました。。。

ただ、「続きは後日」と書いてしまった手前、ほったらかして終わるのは性に合わないので、講演終了後だからこそ書ける、ちょっと批判的な内容も交えつつ、続きを書きたいと思います。

 

【マハゴニー市民席について】

舞台上に客席を設ける、という前代未聞の試みについて。

 

まず挙げられるのが、役者との距離が近い、ということ。

特に、上手側(舞台向かって右手側)は、主演の山本耕史さんの歌をかじり付きで見れたり、バンドの演奏を真正面から見れたり、といった具合で特に好評だったようです。

あと、下手側(舞台向かって左手側)でも、女優陣のセクシーなダンスもかじりつきで見れますので、X染色t(略)

 

また、途中で役者とやり取りができるような場面もあったりします。

 

ラストのデモ行進のシーンは、客席を離れて舞台に立っても良いことになっているようでした。

3階席まである大きな舞台に立てるというのは、めったにない体験だとおもいます。

 

ただ、難しいのは「どこまで自由にやっていいのか」といった線引きが、今回は完全に観客側に丸投げにされており、結果として客側が萎縮してしまい、おそらく制作側が想定していたよりも市民席の観客を巻き込めなかったのではないだろうか、と見受けられます(少なくとも私が観劇した回は)。

ある程度、ルールブック的なものを配布するなり、「ここまではやってもいいですよ」といった例を示すなりすれば、もう少し観客を巻き込めたのではないか、というのが個人的な見解です。

 

 

【総括】

昨今のエンターテインメント作品は、「体感」というものをキーワードにして、消費者にアピールしている傾向が強まっています。

大抵の娯楽が、インターネット経由でスマートフォンによって、実質的にはほとんど無料で気軽に手に入ってしまうのがこの時代です。

そんな中、映画や芝居、コンサートといった、時間や行動を拘束されるものに対して、消費者を満足させ、何度も足を運ばせるには、どのようにアピールすべきか。

 

たとえば、ネット経由などでは手に入れる事の出来ない「体感」を売りにすること。

たとえば、その時、その場所でしか手に入らない「場の雰囲気」の楽しみを提供すること。

それが、昨今のエンターテインメントの作り手が見いだした答えなのではないか、と思います。

 

そういった意味では、今回の「マハゴニー市の興亡」は、

・舞台上の出来事を間近に体験させたり、

・即興性の高い音楽を取り入れる事で、舞台上の役者の演技からマンネリ感を排除したり、

・あえて難解な手拍子を煽るなどで、客席と舞台にある種の一体感を感じられるようにしたり、

といった、「そのときにしか体験できない特別感」が存分に感じられるような作りになっている、と言えるのではないかと思いました。

 

細かい事を言えば、演劇というのは一回一回の公演はすべて別ものです。

制作者側はその“一過性であること”を大なり小なり自覚しながらやっているでしょうし、通なファンはその“一過性である”が故の違いを楽しみに、複数回公演を見に行くのでしょう。

しかし、その“一過性であるが故の楽しみ”をより感じられるようにする仕掛けを施してやれば、100年も前に書かれた台本に沿って演じていても、「全く古くささを感じさせない、現代のこの瞬間にしか実現しない」と思わせるような演劇を作る事ができる。

 

。。。と、そのように考えて作られたのかどうかは定かではありませんが。

今回の「マハゴニー市の興亡」は、そんな“今いっとき”の素晴らしさを感じる事ができるエンターテインメント作品でした。

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コメント: 1
  • #1

    勝倉優子 (水曜日, 28 9月 2016 20:12)

    マハゴニー市民席で3回目に見た時
    上から看板が降りてきて、見たかったこともあって、席を少し離れて屈んだら
    戻ってくださいと促されました。

    私は、市民としてリアクションしたつもりなので心外でした。

    白井さんと、会場側の意図が違っていたのではないでしょうか。

    デモは、立ち位置を促されます。

    それもちょっと心外でした。

    立ち位置の決まりがあるのはわかりますが
    演出意図とは違っていると思います。